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仏法

目に映れば、見える

耳に届けば、聞こえる

これが自己自身の姿
あるべき姿であり
真実
仏法

坐れば、座布があたたまるも
あるべき姿
仏法

病気になることも
死ぬことも
仏法
あるべき姿であり
解決済みのすがた
何の問題もない

もちろん病気になれば、治療もほどこす
これもあるべき姿である。

井上義衍老師

 

今ここにですね、この通りに、これは皆さんの前にこうすれば(手をあげる)これがあるということは絶対なんですね。

 

それほど確かな動かない道であるのにですね、其の外に尊い道があるような気がして本当のものをというてどこかを訪ねている。

 

本当のものが今あるのを捨てておいて、頭の中で本当という変な理想を描いてですね、それを追いかけていくもんですから理想というものは結論のないものです。

 

結論は出てこないんです。どこまで行っても、それはただ考え事だからです。

 

実物を見ることができないんです。夢ばかりです。

 

ところがご覧なさい、実物がちゃんとしているんです。

 

 

原田雪渓老師

 

 仏陀が説かれたことは、

「一切の有形・無形の存在は、人の考え以外のところにあり、すべて因縁により生じ、因縁によって滅しているものである。自分とは一切関係なく、出ては消え、出ては消えしている。因縁によって形成されているものは、中心が無く、実体もない。それ故に、終始変化して(無常)、無始無終であり(無我)、認めようがない(無相)』

ということです。

 

 凡夫は、法(いまの事実)が人の考えいがいのところにあるということがわからないために、自分の考えている様子、認識した状態を事実だと思い込む、すなわちまったくみとめようのないものを実体があるものと妄想をして、その妄想に執着して追いまわすために、さまざまな苦しみが生じてくるのであります。生・老・病・死という苦しみに迷うということは、その事実に迷うのではなく、人の考えの中で迷うということです。

 

 生・老・病・死も、人の考え以外のところにある如是の法であります。生・老・病・死という因縁生の世界を二見相対という人の尺度で測り、「苦しみだ、解決だ」と問題を起こすところに問題が生じるということです。

 

 生・老・病・死という法も、自分とは一切関係なく、生じ滅し、生じ滅し、それで終わっているということです。縁になりきり、なりきりしていけば、解決する必要はまったくないということです。

 

 私たちが、なぜ「信決定」に至らないかというと、「因縁生も信じ、同時に自分の考えも良し」と盲信しているところにあります。

「いまの事実というのは、因縁生のものである」とはわかるのですが、「そういう因縁生という事実は人の考え以外のところのものである」という信仰が弱いために、いまの様子を(因縁生と知りつつ)人の尺度で測る習性がなくならないということです。

 

仏陀の説かれた解脱の道は、

「生・老・病・死を自分の事実として、素直に沿っていく。一切、人の考えを用いていまの事実に手を加えない」

ということであります。

 

 

 

井上義衍老師

 

我見をこれから離れるのではない。
我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。それが「道(みち)」です。それが座禅の一番大切な様子です。

 

 

解決の道

 

自己自身と向き合い、決着をつける。

 

それ以外に解決の道はない。

 

 

原田雪渓老師

 

 ポイントを申し上げますと、狐が狐に安住するーー狐が狐に本当になりきって、人間なんていうものになりたくない、もう狐で十分だ、狐になって本当に満足をした状態を「仏」といいます。

 その反対に、人間が人間に満足をせずに絶えず何かを求めている。仏になろう、仏になろうとして求めている状態を「野狐」といっております。

 

 自分の現在の結果に安住できていない状態のときは、絶えず何かを求め続けて、

天上、人間、地獄、餓鬼、畜生、修羅というような六道を輪廻して、グルグル、グルグルと廻って、落ち着くときがありません。

 しかし本来は、例えば地獄界の衆生であれ、人間界の衆生であれ、天上界の衆生であれ、それぞれの世界に安住することができなければいけないわけです。

 

 自分の世界に、本当に安心して落ち着いて住むことができない、他の世界の方が美しく見えたり、何か素晴らしい世界のように思ったりして、絶えず他を求め続けているということは、今日のこの公案の「不落因果」、あるいは「不昧因果」といわれるような状態で、落ち着くことができません。

 したがって、修行の要領として、求め心ーー「求心」といいますーーをやめて、結果に安住して生活する、結果に安住して摂心をするということが、どうしても必要になるわけです。

 

 いまこうして坐っていても、どうしても何かしら、もうひとつうまく坐れない・・・・・・それも本当のことです。しかし、「うまく坐れないから、なんとかうまく坐ろう」などという考えを起こされませんように。坐れなければ坐れない、落ち着かなければ落ち着けないままに、そこに安住するように努力をしていただきたいと思います。

 

 今日の公案について、繰り返し申し上ておきますけれでも、狐が狐に安住して、なりきって、他を羨むことがないときを、「仏」といい、人が人に安住できなくて、何かしら仏になろう、仏になろう、あるいは悟りを開こうとか、安心をしようというような状態であるときを「狐」といいます。そのことをよくお考えになって、これからも修行を続けていただきたいと思います。

 

 

  

坐禅

 

坐禅をしていると、心のなかに絡まった紐が解けてくるような感じがする。