井上義衍老師

 説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。


 それですから「本性の理」というんです。「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。各自、人々分上(にんにんぶんじょう)、自分の鼻で自分で呼吸しておる。


 だから、どのようなことが、どのように起こってみても、決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。


 法それ自身が、法それ自身として活動しておる。大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。生命(いのち)をかけての大問題です。自己を忘じ切ったところにおいて、自己なくして行われる様子がある。


 私が手を打てば「ポン」どうしても、みなさん、そうならなければならんようにできあがっておるんです。「ポン」どうですか。


 それが本来の面目です。すでに是の如く他に行き場はないんです。そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、どうにもならない状態であったということです。

 

 

 

原田雪渓老師

 物心がつくのは四歳か五歳か知りませんけれども、それから八十歳まで生きられたとして、その間、いろんな善いことがり、悪いことがあり、損をした、得をした、是非・善悪があった生活というものは、いったい誰の生活でしょうか。そういう認識の世界、いわゆる私たちが普通、「人間の生活はこうでなければいけない」、あるいは「こうあるべきだ」というような生活は、すべて「我」の生活であります。この「我」というもの、「自我」というものの本当の正体を見つけだす、それが、「禅」であります。

 

 ものが移り変わっているなかで、「移り変わっている」ということを少しでも知ったとすれば、それは「我」というものが知ったのであって、本当の「自己」が知ったのではありません。したがって、私たちのすべての生活の中に、「私」というものを差しはさむことがなくならない限りは、本当に自由で、平和な、満足をした生活というのはあり得ないことです。

 

 とかく「自由でありたい、平和でありたい」という理念、あるいは概念のなかに閉じ込められてしまって、自由の中で自由を欲するために、かえって不自由になっている場合が非常に多いわけです。

 

 したがって、「こうあらねばならない」、「こうあるべきだ」、「こうすべきだ」というような考え方を離れる必要があります。それが、「諸行無常」です。

 

 

 

自然と健康

 

自然エネルギーをとりいれるほど、人は健康になり、

自然から遠ざかったエネルギーをとりいれるほど、人は病気になる。

 

 

アンマ

 

「人間がお互いの中に自己を見出し認識できるようになったとき、

 初めて本当の平和が訪れます。」

 

 

本物のメッセージ

 

本物のメッセージは年月が流れても、色褪せない。

 

時間をおいて、再び見ると、その意味が理解できる。

 

 

 

見渡せる

 

より進化す(目覚め)れば、

より広範囲に物事が見渡せるようになる。

 

 

 

 

 

目覚め

 

私はすべてである。

 

すべては私である。

 

I am everything