井上義衍老師

 説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。


 それですから「本性の理」というんです。「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。各自、人々分上(にんにんぶんじょう)、自分の鼻で自分で呼吸しておる。


 だから、どのようなことが、どのように起こってみても、決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。


 法それ自身が、法それ自身として活動しておる。大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。生命(いのち)をかけての大問題です。自己を忘じ切ったところにおいて、自己なくして行われる様子がある。


 私が手を打てば「ポン」どうしても、みなさん、そうならなければならんようにできあがっておるんです。「ポン」どうですか。


 それが本来の面目です。すでに是の如く他に行き場はないんです。そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、どうにもならない状態であったということです。